本学会の概要

1978年に第1回日本産科婦人科ME懇話会が開催され、その後、年1回、毎年学術集会を開催している。2000年、日本産科婦人科ME学会に名称を変更した。
国際胎児病学会(The Fetus as a Patient)や、国際産婦人科超音波学会(International Society of Ultrasound in Obstetrics and Gynecology)が日本で開催された際には、ホスト団体となった。

2008年12月に日本母体胎児医学会と名称を変更した。

本学会の目的

本会は、日本産科婦人科ME懇話会の基本理念を受け継ぎ、医学者(M)と工学者(E)が協力して、産婦人科領域におけるメディカルエンジニアリングの学理および応用の研究を推進すると共に、母体胎児医学に関する基礎的、臨床的研究についての発表、知識の交換、情報の提供などを行うことにより、医学の発展に寄与することを目的とする。

日本母体胎児医学会会則 第3条(目的)より

日本産科婦人科ME学会と懇話会の歴史

前田一雄
前田 一雄

これまで「ME懇話会」の歴史を産婦人科ME学会ニュ-スに執筆させて頂いた。馬場一憲新幹事長からその後はどうなったかとお尋ねがあったが、実は最初から第10回までと神崎徹前幹事長とお約束していた。それ以後のことは皆様おおよそご承知のことと思っていたのである。馬場先生には会の年表を提出することでご了承頂いた。

懇話会発足以前、当時導入されたME診断法が優秀であったため客観的事実が強く尊重されるようになり、開かれた産科学の輝かしい未来が期待された。日産婦学会のME問題委員会もあったがメンバ-が限られ、時間や回数が少なく、もっと徹底的に議論でき、自由で制限のない討論会を持ちたいという委員の意向を受けて、当時委員長の前田が第1回のME懇話会をお世話する運びになった。従って最初はME問題委員会共催の形をとった。

「懇話会」の名前は自由な発言を意味したが、その雰囲気を形成し、時間に縛られず討論出来る方策が必要だった。議論は長時間に渡り夜半に及ぶ。米子市皆生の有名旅館に頼み込んで夜間まで討論する会を開く事ができた。土曜日午後に開会して夕刻に懇親会で食事をとり、そのあと会議を続ける。別室に夜食と飲物を用意し空腹を満たしてまた議論に帰る。大変なことを計画していたのである。普段話せない学問的疑問も皆に相談し、主張したいことは正しく主張して、参加者50数名、大いに楽しんだ。午前2時に及んで満足し、疲れて眠った。翌朝はスライドカンファレンスに興じ、午前中に終わって帰宅した。1978年10月のことであった。

会の理念は今日に至るまで伝えられ、自由で制約のない討論が本会の特徴となった。第2回旭川では清水会長のご配慮で深夜の議論が可能になり、第4回高知でも武田会長のもと同様な時間配分が行われた。その後も可能な限りこの方式は守られたが、深夜会議が不可能なら無理せず昼間に限定した。毎年日本各地で開催されたが、名前は「学会」の方が分かりやすく参加しやすいとされ、村田会長主催の第22回懇話会で「日本産科婦人科ME学会」に改められ、第23回石川会長以後はこの名称が使われている。第26回岡井会長はベトナム・ホーチミン市で本会を開催された。今後益々の発展を期待する。

日本産科婦人科学会ME懇話会の黎明期

千葉 喜英
千葉 喜英

日本産科婦人科学会のME問題委員会(委員長前田一雄)の諮問機関としての協議を行う場として設立されたので、この名称が与えられた。第1回産科婦人科ME懇話会以前にもME問題委員会の席上で発表とディスカッションの機会が設けられていた。多くはME問題委員会のメンバーの教室の若手に発表の機会が与えられた。大阪大学からは青木峰夫が発表したことがある。陣痛間隔の数理解析がテーマで、かのFriedmanのモデルに異をとなえるものだった。議長である前田一雄から「すいません、スライド戻してください」「もう一つ戻していただけますか」、結局一番初めのスライドまで戻されてしまった。徹底的な議論を行う原型がここにあった。

そこで、委員会の席上だけではもったいないので、別に日を設けて、学会形式でやろうと企画されたのが産科婦人科ME懇話会である。その懇話会に誰を呼ぶかと議論を行っている時のテープを竹村晃が残していた、当時慶應大学産婦人科の諸橋侃の発言で「うちに名取という若手のいいのがいるから連れてくるよ」、名取道也のことである。ME問題委員会の委員以外の産婦人科の重鎮たちの名前もここで上がった。

さて第一回産科婦人科ME懇話会、前田一雄の地元米子の皆生温泉が会場であった。当時の産科婦人科ME問題委員会の強烈中堅メンバーが先述した諸橋侃、穂垣正暢、竹内久彌、中野仁雄、そして私の師の竹村晃だった。竹村晃はちょうど第1回ME懇話会の開催日に入院し、その年の暮れに帰らぬ人となった。ME懇話会設立の企画には参画していたが、ME懇話会そのものは知らなかった。第一回ME懇話会のシンポジウムで三宅馨が演者になった。米国から帰国したばかりで、講演のテーマはnon stress testの診断基準であった。これ迄の日本の産婦人科医はreactive non reactiveという言葉も知らなかった。三宅馨は医局の1年先輩でここに集まった中では若手である。その講演に産科の大御所である鈴村正勝や室岡一が身を乗り出して真摯に聴きいっていたのには驚かされた。

さて第2回産科婦人科ME懇話会、新設されて間もない旭川医大の初代産婦人科教授清水哲也会長のもとで開催された。清水哲也は超音波ドプラ法のネズミに対する生物作用の論文で有名で、生物学的考察の深さにも驚いた。みんながそんなに討論が好きならば朝までホテルを使えるようにしてあげる。ME懇話会の上下隔たりの無い自由討論の原型がここにある。